景福宮の歴史
1392年に太祖・李成桂(イ・ソンゲ)によって李氏朝鮮による王朝の歴史が始まります。
その後、1395年に「景福宮(キョンボックン)」は完成し、200年ほど政治の中心としての役割を果たしました。
1592年、豊臣秀吉による「文禄の役(壬辰倭乱)」の際に第14代国王・宣祖(ソンジョ)は身の安全を守るため避難しました。
都と国民を見捨てた王に怒った人々は都を離れる王に石を投げ、景福宮に火を放ったため宮殿は跡形もなく消失してしまいました。
その後は昌徳宮がその役割を引き継ぎましたが、1867年、日本で言えば幕末の頃に景福宮は再建されました。
しかし、1895年に景福宮の奥にある乾清宮で日本軍が高宗の皇后・明成皇后(閔妃)を殺害する事件がおき、王が居所を移したため、王宮でありながら王がいない事態となりました。
1910年以降は日本によって正殿の前に朝鮮総督府庁舎を建てられるなど多くの建物が破損しましたが、主要な建物は今も当時の姿を残しています。
光化門(クァンファムン)
景福宮の入り口には光化門があります。
焼失と再建を繰り返して移築されたこともありましたが、2010年に元々あった場所に復元されました。
光化門前に当時の武官たちの衣装を着た人が立っています。
近寄って記念写真を撮ることができます。
興礼門
上の画像は興礼門(フンネムン)です。
興礼門は光化門をくぐった先にある景福宮の中門です。
門の中央はかつて王の御輿が通っていた入口です。
階段には鳳凰の装飾が施されています。
勤政殿(クムジョンジョン)
勤政殿は韓国最大の木造建築です。
王の即位式などの公式行事行われた場所です。
玉座の上にある天蓋には王の象徴・龍の装飾が施されていますが、観覧可能な場所から見るのは難しいです。
勤政殿を囲む月台(石材で作られたバルコニーのような場所)の手すりには魔除けもしくは縁起のよい動物の石像が配置されていいます。
思政殿(シジョンジョン)
勤政殿の裏側にある思政殿は王が日常の政務を行った場所です。
玉座の後ろにある龍の絵が淡い色合いでとても綺麗です。
千秋殿(チョンチュジョン)
景福宮にある千秋殿は王が臣下と学問を論じた場所です。
世宗がハングル文字を作り出した場所はこの千秋殿だと言われています。
下の画像は千秋殿の内部です。
萬春殿(マンチュンジョン)
思政殿の東隣にあり、「千秋殿」と対をなしています。思政殿に比べると装飾は控えめです。
王が居住して執務を行った宮殿で、臣下と国事について議論した場所とされています。
冬でも政務を執れるようにオンドルの部屋があります。
仰釜日晷(アンプイルグ)
仰釜日晷は日時計の一種です。
文字盤が窯のようにへこんでいるためこのような名前が付けられました。
第4代国王である世宗の時代に天文観測器具や暦書などが作られました。
韓国映画『世宗大王 星を追う者たち』でそのことをご存じの方も多いかもしれませんね。
2020年に韓国の文化財庁がアメリカ・ミズーリ州で個人が所蔵していた仰釜日晷をオークションで落札し、景福宮のすぐ西隣にある国立古宮博物館が現在所蔵しています。
景福宮にあるのはそのレプリカです。
仰釜日晷の縦線は時刻を表すもので、この画像の撮影時刻は午後12時4分。
影は中央の線を超えて午後12時過ぎを正しく指しています。
峨眉山(アミサン)
峨眉山は王妃が暮らしていた交泰殿の裏側にあります。
山の名前のようですが、実際は裏庭の名前です。
峨眉山には階段状の庭があって鳳凰、松竹梅、鶴や鹿の描かれた美しい6角形の煙突が4基並んでいます。
朝鮮半島の家では古くから煙を床下に通して部屋を暖めるオンドル(床暖房)がありました。
交泰殿のオンドルに使用された煙は峨眉山の煙突から排出されていました。
慈慶殿(チャギョンジョン)
第高宗の父・興宣大院君は息子の高宗の即位を後押ししてくれた神貞王后に感謝の意を込めて宮廷内で最も華やかな慈慶殿を贈りました。
1888年に再建された慈慶殿は景福宮にある寝殿の中では最も古い建物です。
慶会楼(キョンフェル)
池に浮かぶように建てられた慶会楼は大変美しいです。
慶会楼は王や大臣らの宴の場、外国からの使臣との接待の場として使用されました。
また、科挙の最終試験場でもありました。
香遠亭(ヒャンウォンジョン)
景福宮をかなり奥まで進むと香遠池(ヒャンウォンジ)が見えてきます。
その香遠池に架けられた小さな橋を渡った先に香遠亭があります。
六角堂の形をした香遠亭は王や王妃が休息をとり、詩を歌うなどした場所です。
乾清宮(コンチョングン)
1873年、第26代国王・高宗(コジョン)とその妃の明成(ミョンソン)皇后(閔妃)が暮らした場所です。
王宮の建物らしさはなく、両班たちが暮らしていた住居と同じ建築法です。
1887年にアメリカのエジソン電気会社が蓄電機を設置したことにより、韓国で初めて電灯が使用されました。
王と皇后の居所は別々に作られています。
王の居所は長安堂、王妃の居所はその奥にある坤寧閤です。
乾清宮は悲しい事件が起きた場所として知られています。
1895年10月8日の未明に日本軍が乾清宮に侵入して、長安堂と坤寧閤の間にあった庭へ皇后の閔妃を引きずり出して殺害してしまったのです。(乙未事変)
閔妃の遺体は坤寧閤の東にあった玉壺楼に一時的に置かれましたが、その後乾清宮の東にあった林で焼かれました。
集玉斎(チボッチェ)
景福宮の一番奥にある集玉斎。
高宗の書斎です。
元々は昌徳宮にありましたが、1891年に移設されました。
ここで外国の使臣に接見することもありました。
正面左側には八角形の建物、八隅亭(パルジョン)があり、集玉斎とつながっています。
神武門
景福宮の一番奥にある門です。
この門から出て横断歩道を渡ると、目の前に旧大統領官邸である青瓦台の入口があります。
続けて青瓦台を見学したい人には神武門は便利な出口です。
一方で、青瓦台を見学した後に景福宮を見学した人にも神武門は便利な入口です。
ただし、神武門から景福宮へ入場する場合、入場料の支払いはクレジットカードのみ可能です。
現金払いはできませんのでご注意ください。
景福宮で見られる儀式
・王宮守門将交代儀式
開始時刻:10時、14時(約20分間)
場所:光化門の内側の広場です。光化門と興礼門の間の広場で見られます。
・光化門守衛儀式
開始時刻:11時、13時(約10分間)
場所:光化門の前です。
・守門軍公開訓練
開始時刻:9時35分、13時35分(約15分間)
場所:光化門から内側へ入ります。目の前には大きな興礼門があり、右手には比較的小さな協生門があります。その協生門の外で公開訓練が見られます。
※天候によっては上記の内容が中止もしくは縮小されることがあります。
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