バルカン半島 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの旅 -モスタルとサラエヴォ-

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの基本情報

正式国名 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

首都 サラエヴォ

言語 ボスニア語・セルビア語・クロアチア語

通貨 コンベルティビルナ・マルカ

プラグ Cタイプ

ビザ  最初の入国日から起算して6か月のうち合計90日以内の滞在は不要。こちらから最新情報をご確認ください。

 

暗い歴史を背負うボスニア・ヘルツェゴヴィナはどこか寂しげです。

観光している自分にも悲哀の情がわいてきます。

しかし、お土産屋さんの前を通るとその気持ちに変化が生まれます。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの国旗は鮮やかな青と黄色のコントラストが印象的です。

おみやげにはそのデザインがとても多く使われているのです。

明るさと強さを併せ持つ国旗が悲しい気持ちを吹き飛ばしてくれました。

 

モスタル

クロアチアのドゥブロヴニクからバスで4時間ほどかけてモスタルへ。

モスタルはボスニア語で「橋の守り人」という意味です。

モスタルには美しい橋スターリ・モストがあるのです。

 

スターリ・モスト

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ モスタル

1566年にこのアーチ状の石橋が建てられました。

当時はオスマン朝がこの地を支配していました。

橋の下には支える柱がまったくありません。

下を流れるネトレヴァ川、遠くの山々、そしてスターリ・モストはどれもとても美しく見とれてしまいます。

1993年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の際にスターリ・モストはセルビアの率いる軍に破壊されてしまいました。

今のスターリ・モストは2004年に復元されたものです。

スターリ・モストは通行可能で人々の日常生活に欠かせないものです。

 

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの料理

ベゴバ・チョルバ

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

チキンと野菜のスープ。

オクラが入っているため、とろっとしています。

 

モスタルから鉄道の旅を再会します

2時間半ほど列車に揺られていると、列車はトンネルの中へと入っていきました。

サラエヴォにそろそろ到着する時間です。

私は列車内に忘れ物をしないように荷物の確認を始めました。

荷物の準備が済んでも列車はまだトンネルの中を走っています。

ようやく列車が長いトンネルから出たとき、目の前は銀世界になっていました!

トンネルに入る前は雪がまったく積もっていなかったのでその変わりように感激しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ サラエヴォ

標高550mに位置するサラエヴォは冬はとても寒いです。

さすが冬期オリンピックの開催地ですね。


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サラエヴォの見どころは暗い歴史にまつわるものばかり?

ラティンスキー橋(ラテン橋)

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ サラエヴォ

1914年にオーストリア・ハンガリー帝国フランツ・フェルナンド皇太子夫妻がラティンスキー橋の上ででセルビア人青年に狙撃されて亡くなりました。

第1次世界大戦が始まるきっかけとなった歴史上重大なサラエボ事件が起きた場所です。

フランツ・フェルナンド皇太子はハプスブルク家の皇位継承者でした。

旧ユーゴスラビアの時代にはこの橋はプリンツィプ橋という名が付いていました。

オーストリア・ハンガリー帝国の植民地だったことに反発して皇太子夫妻を狙撃したセルビア人の名前がプリンツィプでした。

彼は現地で称賛されてその名が橋の名前に付けられたのです。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争でセルビアとの関係が悪化したことで橋の名前は元のラティンスキー橋に戻されました。

 

サラエヴォ冬季五輪施設と墓地

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ サラエヴォ

1984年にサラエヴォで冬期オリンピックが開かれました。

その華やかなスポーツの祭典が行われた場所が今はこの写真のようになっています。

これはすべてお墓です。

過去と今が悲しいまでに対照的です。

オリンピックの7年後、1991年にボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が起こりました。

残酷極まりない犯罪も多く、第二次世界大戦以降のヨーロッパでは最悪の紛争になりました。

3年間で20万人以上が亡くなりました。

墓石を見ると、そのお墓で眠っている人が何年に生まれて何年に亡くなったかが分かります。

「1991―1993」のように幼くして亡くなった子供が非常に多いと知りました。

それが紛争の無情さ・残酷さを物語っていました。

「自分たちの国をつくる」ための紛争だったようですが、国のために誰かの命が犠牲になってよかったのでしょうか。

たった一度の人生がついえてしまってよかったのでしょうか……。

悲しい歴史が今もなお街全体に寂寥感を漂わせています。

 

私は墓地を訪れた後にサラエヴォのメインストリートに行きました。

その大通りは紛争時にスナイパー通りと呼ばれていました。

当時近くの建て物に潜んでいたセルビア軍のスナイパー(狙撃兵)がこの大通りを歩く人々を無差別に射殺したためです。

私は気分を明るくするために職人街と言われるバシチャルシァなどを歩き回りました。

ボスニアのサッカーユニフォームなども売っていて、おみやげを探すにはうってつけの場所です。


 

サラエヴォには2つの国がある?

1991年に始まったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の際、国民はセルビア人と戦いました。

セルビア軍に包囲されたサラエヴォでは多くの犠牲者が出ました。

1995年に紛争は終わりますが、セルビア人はこのサラエヴォにとどまりました。

そのため、サラエヴォは町の北側がボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の領土ですが、南側はセルビア人共和国の領土となっています。

セルビア人共和国は、首都ベオグラードのあるセルビア共和国とは別の国です。

両者は混同しやすいので日本ではセルビア人共和国を「スルプスカ共和国」と呼ぶこともあります。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とセルビア人共和国の境界線には壁があるわけでもなく、またその地域の往来にパスポートの提示も不要です。

旅行者にとって不便なことがあると言えば、それぞれの側に長距離バスターミナルがあることです。

どちらも町の中心から離れているのでバスやトラムで行く必要あります。

バスターミナルを利用する場合は置き引きなどに気を付けましょう。

私はセルビア人共和国側のバスターミナルに行き、夜10時の夜行バスでセルビアのベオグラードへ向かいました。

到着は翌朝5時でした。

それから北マケドニアのスコピエ行きの鉄道に乗りました。

 

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